以下、このような【質問】がときどき出てくる。先へ読み進む前に、あなたのイメージを書き出してみよう。そのイメージと比較検討しながら、あなたらしい学級運営を構築して欲しい。
私の願う学級は、生徒たちが「お互いの違いから学び合う学級」だ。一人一人感じ方も考え方も違うからこそすばらしいんだ、だから学び合えるんだという気持ちを具体的な場面で味わわせたい。何を感じ何を学ぶかは、もちろん一人一人違っていていい。そんな学級を作りたい。そして、その雰囲気を担任として味わい感動したい。
時代の流れの中で、学校は大きく変化し、その意味が問われてきた。知識や学力・体力・技術の向上を目指すなら、塾やスポーツクラブへ通う方が合理的だろう。インターネットなどの通信機器を利用する方が効率的だろう。しかし、学校は、人柄も目標も趣味も学力も運動能力も違う生徒たちが集まっている。体育祭で学級優勝を目指しても運動の苦手な生徒が一緒だし、合唱を作り上げるときでも歌うことが嫌いで苦手な生徒が一緒なのだ。こんなことは地域の合唱サークルでもありえない。いかにも非合理的だ。
しかし、お互いの違いから学び合うという視点に立てば、学校・学級ほど恵まれた環境はない。ここにこそ学校の存在意義があると思う。近年の子どもを取りまく状況をみても、学び合いの大切さはますます重要になってきている。
学校だからできる「お互いの違いから学び合う教育」こそ、時代の流れに左右されない学校自身を生かす最後の砦なのだと思う。
お互いの違いから学び合うためには、まずお互いの違いに気づき、それを認め合うことが必要だ。違いを認めるというのは簡単なようでなかなか難しい。しかし、認め合えるようになってくると新たな気づきに広がっていく。学級で同じ体験をしても、自分とは正反対の思いの仲間がいることや、自分は何とも思わないことなのに、疲れるほど気を使っていた仲間に気づくようになってくる。「へえ、同じ時間に同じ部屋で同じことを取り組んだのに全然思いは違うんだなあ」という感覚だ。その違いへの気づきは、自分と同じ思いの仲間に対しての新鮮さにもつながっていく。この繰り返しの中で、一人一人違うから学び合えるんだという普遍的な気づきが生まれ、違うことはすてきなことなんだなという思いにつながっていくだろう。そんなイメージである。意見が違っても、お互いの違いを認め、安心して自分の思いを表現することができる。ものの見方が一元的ではなくお互いの違いを認め合えるのだ。いじめの土壌とはまったく正反対である。
さらに、その学び合いは「皆違うけれど、私たちは根底ではつながっているんだなあ」という感覚にもいつかつながっていくだろう。ひとりぼっちを感じることがあっても、同じ孤独感を味わっている仲間もいるという発見。孤独感は解消されないでも、自分だけではないという気づき。ときには、会話をしていない仲間にも何かつながっているものを感じる。自分の持っている弱さは自分だけでないことに気づくこともある。いつか生徒が書いてくれたカットを見てほしい。
生徒があるときに感じたことを表現したものだ。足元が地球につながり、地球を通って他の人につながっている。地球や誰かを傷つけることは、そのまま同時に自分を傷つけていることになる。「このつながりが見えないから戦争がなくならないのかもしれない」と、この生徒は感じた。説明すれば、言われるまでもなく納得できることだが、気づいたり感じたりすることが大切だ。
1年間たち、学級を解散するときに、「去年の学級も良かったけれど、今年の学級も良かったな。いろいろあったけれど、学級の仲間がいたからこそ学び合うことができたんだ。中学校を卒業してもがんばるぞ。」という思いを共有してほしい。きっとそれは、一人一人の未来へのいしずえになっていくと思う。
例えば次のような具合である。生徒が卒業して10年後、20年後に、文集をなつかしく見たという手紙である。
20年以上たって、たまたま手にした文集には、中学生時代の気づきがいっぱいつまっていたのだと思う。そして、彼らは中学時代の自分と、今の自分のつながりを何か感じている。遠い昔の「1年間」が、今の自分を支えている小さな一つ、でも確かな一つになっていることを感じる。そこにまた新たな気づきが生まれるかもしれない。
そんなすてきな未来へつながっていく学級運営・学級経営を考えていきたいと思う。