学級経営の手引き(学級開き編)
 まもなく入学式だ。学級担任としての生活が始まる。子どもたちが集まる学級を担任するのだ。緊張を感じながらも、学級への思いがふくらむ楽しいひとときである。

【1】あなたは担任としてどのような学級を願うだろう。


 以下、このような【質問】がときどき出てくる。先へ読み進む前に、あなたのイメージを書き出してみよう。そのイメージと比較検討しながら、あなたらしい学級運営を構築して欲しい。

 私の願う学級は、生徒たちが「お互いの違いから学び合う学級」だ。一人一人感じ方も考え方も違うからこそすばらしいんだ、だから学び合えるんだという気持ちを具体的な場面で味わわせたい。何を感じ何を学ぶかは、もちろん一人一人違っていていい。そんな学級を作りたい。そして、その雰囲気を担任として味わい感動したい。

 時代の流れの中で、学校は大きく変化し、その意味が問われてきた。知識や学力・体力・技術の向上を目指すなら、塾やスポーツクラブへ通う方が合理的だろう。インターネットなどの通信機器を利用する方が効率的だろう。しかし、学校は、人柄も目標も趣味も学力も運動能力も違う生徒たちが集まっている。体育祭で学級優勝を目指しても運動の苦手な生徒が一緒だし、合唱を作り上げるときでも歌うことが嫌いで苦手な生徒が一緒なのだ。こんなことは地域の合唱サークルでもありえない。いかにも非合理的だ。

 しかし、お互いの違いから学び合うという視点に立てば、学校・学級ほど恵まれた環境はない。ここにこそ学校の存在意義があると思う。近年の子どもを取りまく状況をみても、学び合いの大切さはますます重要になってきている。
 学校だからできる「お互いの違いから学び合う教育」こそ、時代の流れに左右されない学校自身を生かす最後の砦なのだと思う。

 お互いの違いから学び合うためには、まずお互いの違いに気づき、それを認め合うことが必要だ。違いを認めるというのは簡単なようでなかなか難しい。しかし、認め合えるようになってくると新たな気づきに広がっていく。学級で同じ体験をしても、自分とは正反対の思いの仲間がいることや、自分は何とも思わないことなのに、疲れるほど気を使っていた仲間に気づくようになってくる。「へえ、同じ時間に同じ部屋で同じことを取り組んだのに全然思いは違うんだなあ」という感覚だ。その違いへの気づきは、自分と同じ思いの仲間に対しての新鮮さにもつながっていく。この繰り返しの中で、一人一人違うから学び合えるんだという普遍的な気づきが生まれ、違うことはすてきなことなんだなという思いにつながっていくだろう。そんなイメージである。意見が違っても、お互いの違いを認め、安心して自分の思いを表現することができる。ものの見方が一元的ではなくお互いの違いを認め合えるのだ。いじめの土壌とはまったく正反対である。

 さらに、その学び合いは「皆違うけれど、私たちは根底ではつながっているんだなあ」という感覚にもいつかつながっていくだろう。ひとりぼっちを感じることがあっても、同じ孤独感を味わっている仲間もいるという発見。孤独感は解消されないでも、自分だけではないという気づき。ときには、会話をしていない仲間にも何かつながっているものを感じる。自分の持っている弱さは自分だけでないことに気づくこともある。いつか生徒が書いてくれたカットを見てほしい。

 生徒があるときに感じたことを表現したものだ。足元が地球につながり、地球を通って他の人につながっている。地球や誰かを傷つけることは、そのまま同時に自分を傷つけていることになる。「このつながりが見えないから戦争がなくならないのかもしれない」と、この生徒は感じた。説明すれば、言われるまでもなく納得できることだが、気づいたり感じたりすることが大切だ。

 1年間たち、学級を解散するときに、「去年の学級も良かったけれど、今年の学級も良かったな。いろいろあったけれど、学級の仲間がいたからこそ学び合うことができたんだ。中学校を卒業してもがんばるぞ。」という思いを共有してほしい。きっとそれは、一人一人の未来へのいしずえになっていくと思う。
 例えば次のような具合である。生徒が卒業して10年後、20年後に、文集をなつかしく見たという手紙である。
 秀夫先生こんにちは。相変わらずジメジメした天気が続いていますね。私はこの湿気のせいで顔はてかるし、髪ははね放題。優雅にあじさいを愛でたり、カラフルな傘を楽しむ状況とはほど遠いです。学校の廊下や壁もジトジトしてそうですね。
 話は変わりますが、私が中学生だった10年前に毎週やっていた「そのときどんなこと感じた文集」はまだ続いているのですか?最近「私って何をしている時が幸せなんだろう」とか「これまで何を大切にしてきたんだろう」といったことをよく考えるのですが、それって「よーっし考えるぞー」ってわかることじゃないですよね。ムカツク上司に誉められた時「また社交辞令かー。」と思った自分を振り返って「私って素直じゃない」ってはじめて気がついたりするものです。
 私は10年たってから「秀夫先生の気づきの授業はすごいな〜」ってわかりました。だから生徒に「めんどくさ!」とか言われてもどうかめげなでください。きっとその生徒も何年後かに「気づきの授業」にリンクする何らかの体験をするはずでしょう。
 以上私の中学時代の反省の意味もこめて、秀夫先生へのエールでした。
 ごぶさたしています。今回お手紙を書くことにしたのは、卒業のシーズンだから(?)です。11:30ごろ我が家の洗濯機が動かないので、近くのコインランドリーへ行く途中、花束をもった、見るからに卒業式帰りの学生の団体にあって、“あぁ、卒業式のシーズンか”と思い家に帰ってから卒業アルバムと文集(良くあったと自分で関心)を引っぱり出してみようとして2冊を前にして思ったことは中3の3学期のことでした。
 家のことで、学校へ行けなくなって、みんなに心配をかけたこと、今だから話せることといえば、あの時夜になると父と2・3日に1回、飲み歩いていたこと…。
 だいぶ飛びましたが、そんな中、中3の思い出といえば、ただ、ただ!!良くも悪くもクラスのまとまりのいいこと!特に作詞作曲した“Tomorrow”に関してはまわりの反対にも関わらず、コンクールで歌い優勝してしまったこと。私はほとんど歌ってなかったが、みんなの声が出ていて、そしてきれいにハーモニーがとれていたことを覚えています。
 今日はこの辺で…。また身近に起きたことなどを連絡します。

 卒業生が、昔の文集を見るきっかけは、引っ越しで荷物の片付けをしているときなどや片付けていたら出てきたという偶然が多いようだ。
 20年以上たって、たまたま手にした文集には、中学生時代の気づきがいっぱいつまっていたのだと思う。そして、彼らは中学時代の自分と、今の自分のつながりを何か感じている。遠い昔の「1年間」が、今の自分を支えている小さな一つ、でも確かな一つになっていることを感じる。そこにまた新たな気づきが生まれるかもしれない。

 そんなすてきな未来へつながっていく学級運営・学級経営を考えていきたいと思う。




未来につながる学級経営(学級開き編)


inserted by FC2 system